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吉田町宮小路の湯殿山碑


 

 吉田町の西川筋東岸に樹齢八〇〇年とも言われる大欅や観音堂(行基作観世音)があり、又永い間十八軒を守り続けてきた宮小路というやさしい地名をもつ集落があります。そこは弥彦山を背景に松の樹一本と「湯殿山 行者 治田孝行」と刻まれた石碑があります。又隣接する和納村にも「湯殿山 行者 治田沸海上人碑 山田沸明海書」とあり、後ろにも「大正十年五月健立 構中一同 神林成海書」と刻まれておりました。そこに共通する湯殿山碑について調べる事にしました。
 宮小路部落には「宮小路に祭る湯殿山之記録」として一枚残っており、その記録の依りますと、明治三十四年から四年間連続して火災が発生し、この難を救って頂く為にも湯殿山行者である治田孝行「仏海上人」に村を挙げて祈願してもらった所、その後平穏さを取り戻したという事から構を作り、又行者治田孝行を慕って石碑を健立したと言う事が解りました。

 吉田町の明治時代の生活状況をみますと「吉田町歴史年表」
 一、伝染病の流行
 一、水不足と水害

 上記の資料により、自然災害や疫病流行・農耕での大不作に於いては、この難はまさに「祟り」と言う言葉がふさわしく、現在も使用されておりますが、特に昔の人々は非常に恐れた言葉でもあったに違いありません。
 明治四十三年より構を作り、昭和十年頃まで構の人達は白装束で山形県の三山まで出かけたとのことです。
 現在では構としての形はなくなりましたが村の大きな行事として春・秋の二回のお祭りを行い、村の守護人として奉っております。
 その守護人たる治田孝行仏海上人とは天保八年(一八三七)ころ、西蒲岩室村の生まれで大正初期七十七歳で他界しました。
 治田孝行は米穀商へ婿養子となり、その後事業に失敗し店を閉めることになり親類やご先祖様に申し訳ないと言う事で深夜に水行をやり村に在る八幡様に願かけをしていた所、「山形県湯殿山大日坊に行きなさい!」とお告げがあったそうで、早速湯殿山大日坊で苦行に専念し、「或る力」「或る存在」をおのれのものとして災難の基となる庶民の罪・汚れを一身に引き受け、祓い清めながら各地を教化しその後、郷里の和納に居住することになりました。
 当時は二間半×三間のお堂を建て本尊を祀り衆生の災いをぬき難を救われ仏海上人として地域の人から尊崇されていました。
 平成四年三月頃、和納へ訪ねてみるとすでにお堂らしき所はなく、ご本尊をお守りしている某家がありました。八十歳前後の男の人から幸いにして話を聴く事ができ四十分位たった頃、突然お姿をお見せしましょうと言って下さったのです。その時某氏は智拳印を結び「エイ!エイ!」とかけ声を出した後、観音開きの扉を開けて見せてくれました。そこには高さ四十cmくらいの山伏姿の形をした真っ白いご本尊でした。

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宮小路・湯殿山の記録

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石碑健立礼状

 

湯殿山信仰

 治田孝行が修行したという湯殿山信仰は出羽三山にあり、羽黒山・月山・湯殿山の三つの山からなっている。これらの本地垂迹にはそれぞれ次ぎのような神仏があてられる。

 本地

 垂迹

羽黒山

聖観音

稲倉魂命

月山

阿弥陀如来

月読命

湯殿山

大日如来

大山祗命・大已貴命

  羽黒山には現世の仏の観音の浄土となり衆生を救済する仏なので「現世」を象徴し、一方の月山は死者霊を救済する阿弥陀如来の浄土なので「過去」、湯殿山の大日は寂光浄土で「未来」というように分けられています。
 このように出羽三山の信仰の旅をすることによって「現在・過去・未来」を通して擬死再生という死んだ者が母胎内で再び宿り成長し出生するというモチーフと習俗・習慣の根底には死者の再生という信仰があったものと考えられます。

 又、湯殿山とは出羽三山の総奥の院と唱え三山総ての神霊が凝縮する場所で神秘性と現在・過去・未来と総ての時間が同居しております。もっとも尊ばれる大日如来が本地仏で、ここで詣でれば総ての苦しみや悩みから救われ安楽の境地のに到たることができると信じられていたからです。

 湯殿山は「言わず語らずの山」と言われ御神体は秘所と呼ばれる聖域にあります。松尾芭蕉も「語らぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠み残しております。
 湯殿山修験者とは?御神体とは?一見したくなり六月の初旬山形県まで足を伸ばしてみなした。

 鶴岡まで国道112号線を車で一時間、湯殿山ホテル前より専用バスで五・六分揺られて湯殿山本宮へ着きます。
 夏季には本宮へお参りする人は毎日二千人から三千人訪れると言われ、その入り口の処には社務所が設けてあり神主よりお祓いを受けヒト形の小さな和紙をもらい、わが身を離れない悪いもの・不浄の一切を人形の紙に息を吹きかけて目の前の小川に流すというのです。こうして聖なる山の御神体、総ての穢れを取り除いて清い体に近ずくのであります。さらに奥深く進むと谷あいに水の音を立てて激しく流れ、そのつり橋を渡りいよいよ御神体であります。
 高さ三メートル近くあり、その中央のくぼみから何を象徴するのか液体がこんこんと湧き出て絶えずもくもくと湯気を立て静寂とその神秘さの迫力に圧倒される思いでした。表面は銅サビ色に染まり、ぬるぬるとした感じがします。参拝者は素足になることによって御神体と一体になることを許されます。
 男性はズボンの裾をまくり、つま先で巨岩の端を支えにつかまりながら登る、途中の各所にあるくぼみからも湧き出し、素足に触れる御神体の液は熱くて思わず声が出る程でした。その御神体を突き通した熱湯の溢れる巨岩の様を豊穣の象徴としての女体とみる。
 神体岩の下部に細長い三角形の小穴が空いており、まさに女人根閥、上からは湯が流れ落ちその神秘性に感動的であり、古代信仰は今も生きつづけているのです。その御神岩のすぐ左側に「岩供養」といって、いつも水に濡れているような巨岩があり、参拝者は亡き人の戒名を小さな紙に書いてこの岩に貼りつけるという。岩一面にその紙が付着しており異様に感じられます。このように湯殿山奥の院は岩供養・死者の霊の集まる祖霊神の山であると同時に女陰という生命のエネルギーの象徴・豊穣のシンボルであるならば「生と死」「陰と陽」大地の究極の姿であり、出羽三山を凝縮した秘所は宇宙の調和と統一の世界を持って観られます。

 

つづく